近現代史を学び直したいとお考えの方へ

「古代、中世、近世…の順で歴史を学んできて、近現代史の授業は学年末の忙しい時期。
だから、近現代史はあまり勉強をしていないの・・・」という方はいらっしゃいませんか?

そのような方のために、近現代史を手っ取り早く学ぶ方法を提案させていただきます。
私どもが提供するWEBサイト「自分史作成支援サイト」を利用する方法です。

先ずは、自分史作成支援サイト(TM)の「生まれ年入力欄」で、最も古い時代を選択してみて下さい。
左側の頁の歴史記述を読むことで、その頃の様子が解ります。
次頁へ、次頁へ・・・と、クリックしながら読み進むことで、時代の流れが実感できるようになりますよ。では、やってみましょう。

その前に、それ以前の歴史のおさらい!

(1)幕末

日本の近海に欧米の船が頻繁に出没するようになった18世紀末ごろの世界のお話です。
地中海と紅海を結ぶスエズ運河が開通してヨーロッパとアジアが接近するようになると、列強諸国はアジア・アフリカに注目するようになります。
スエズ運河の権利を取得したイギリスは、インドを植民地とし、ビルマを獲得します。
清との戦争に勝利したフランスは、インドシナを植民地とします。
ドイツは中東に進出します。
ロシアは、シベリア鉄道を建設して極東へと迫ります。沿海州に海軍基地を設立し、冬でも凍らない港を求めて南下を進め、朝鮮半島を狙いはじめます。
太平洋での覇権を狙うアメリカは、ハワイとフィリピンの獲得を目指します。

このような諸外国の動きに対し、徳川幕府は「異国船打ち払い令」を出して鎖国を続けようとするのですが、アヘン戦争での清の敗北を知るや異国船打ち払い令を緩め、軍事力増強へと舵を切ります。

1853年、4隻の巨大な軍艦が浦賀に訪れました。
軍艦を率いるアメリカの総督ペリーは、日本に対して開国と通商を求める国書を携えておりました。
幕府はペリーの要求に応じることとし、1854年に日米和親条約を締結します。

1856年にやってきたアメリカのハリスは、日本に通商条約の締結を迫ります。
この通商条約は「日本はアメリカ側の不法行為を裁くことができず(治外法権)、関税を自由に定めることもできない(関税自主権なし)」という不利な内容でしたので、激しい反対が沸き起こりますが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、この不平等条約を締結します(その際、清の轍を踏まないように「外国人の居住地を制限する」という条件や「アヘンの輸入は認めない」という条件をつけたことは賢明でしたね)。
その後、同様の不平等条約が、イギリス・ロシア・オランダ・フランスとの間でも結ばれることとなり、これらの不平等条約の改正を目標に、明治の政府は「富国強兵・殖産興業」にまい進するのです。

(2)明治維新の頃

1866年、土佐藩出身の坂本龍馬によって西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(長州藩)が引き合わされ、薩長同盟が結成されます。財政改革に成功した薩摩・長州藩は軍事力を高め、倒幕に向けて歩調を合わせることとしたのです。
幕府に好意的であった孝明天皇が死去して15歳の明治天皇が即位したことから、朝廷内では討幕派が優勢になりつつあった時期でした。

長州征伐の途上で死去した徳川家茂のあとを受けて将軍となった徳川慶喜は、1867年、政権を朝廷に返還します(大政奉還)。それを受けて朝廷は、天皇中心の新政府の設立を宣言したのです(王政復古の大号令)。

1868年、天皇は「議会を設置して公議輿論に基づいて政治を行う」ということを公家や大名の前で誓います(五箇条のご誓文)。元号は「明治」となり、江戸は「東京」と名を変え、天皇が迎えられます。

1869年、薩摩・長州・土佐・肥前の藩主が領土(版)と民(籍)を天皇に返還したことから、他藩もそれに続きます(版籍奉還)。その後、これらの雄藩(後の明治政府)は、天皇直属の約一万の御親兵を背に、東京滞在中の藩主56名に対し、天皇の名において「廃藩置県」を言い渡したのです。
「廃藩置県」とは、政府の下に地方組織としての「県」をおくことで、藩が有していた軍事や徴税の権限を新政府に移行させることです。
「士・農・工・商」の身分制度は「華族・士族・平民」となり、華族や士族には、政府から禄が支給されることとなりました。平民には名字が許され、職業選択・結婚・居住の自由が与えられるようになります。何人でも政府に意見を申し立てることができる制度も作られました(建白書制度)。

1871(明治4)年に文部省が設置され、1872年に公布された学制によって、6歳以上の男女は全て小学校に行くことになります。
1873年に徴兵令が発布され、満20歳になった男子に兵役が課せられることとなりますが、徴兵によって「国民軍」を育成するというこの制度は、士族の反発を招きます。自身の存在意義を示すため、士族の間で「征韓論」が沸き起こります。
これらの不平士族に対する対応策として、西郷隆盛らによって朝鮮出兵が画策されますが、欧米視察から帰国した大久保利通(薩摩藩出身)らは、「富国」を優先させるべく「征韓論」を退けてしまいます。これを不服として西郷隆盛や板垣退助らは参議を辞任します。

「征韓論」を退けた大久保は、内務省を設置し、殖産興業に乗り出します。
1873年の地租改正(地価を定め、土地所有者に地券を発行し、地価の3%を税金として納めさせる制度)によって政府の財政基盤を確立させた後、紡績業を中心に官営模範工場を設立します。
かねてから経営していた鉄道や鉱山事業に加えて、日本郵船会社や海運会社も設立しました。
勧業博覧会の開催や、農業技術の改良などを通じて士族授産にも努めました。

そして1876年、士族に支給されていた家禄を、一時金と引き換えに打ち切ることとしたのです(秩禄処分)。この処分に対する士族の不満が西南戦争へと発展し、西郷隆盛率いる反乱軍は、徴兵によって組織された国民軍(政府軍)に敗北するのです。

その頃の日本の経済に関するお話です。
1872年に国立銀行条例が制定されます。
秩禄処分が行われた年(1876年)、銀行業務を行うための要件が緩和されます。これにより、一時金としての巨額な金銭証書を手にした華族・士族によって、153もの国立銀行が設立されます。これらの銀行から一機に資金が貸し出されたため、大インフレが到来したのです。
このインフレを終息させるために松方正義はデフレ政策を行いますが、それは、インフレ期の米価高騰による利益を地主に独占させる結果となり、農民との格差が拡がります。
窮乏する農民は都市に流れて工場労働者となり、その労働力を搾取することによって資本を蓄積する人(資本家)が現れるのです。

次は、西郷と共に政府を去った板垣退助のお話です。
土佐藩出身の板垣退助は、1874年に「民選議院設立の建白書」を提出します(明治政府が「建白書制度」を作ってくれていたお陰ですね)。
1878年に地方議会が開設されるようになると、地方議会に進出した自由民権派によって各地に政治団体が結成されるようになります(政治団体としては、板垣退助を党首とする「自由党」、大隈重信を党首とする「立憲改進党」などがありました)。

(3)大日本帝国憲法が制定された頃

1885(明治18)年に内閣が発足します。
それまでの政治は、1868年に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて設置された太政官によって担われていましたが、その長官である太政大臣は、実際に行政を行う人(各省の長官(卿))ではないため、大臣としての権限が弱かったのです。責任の所在も不明確でした。
そこで、内閣制度を発足させ、大臣が各省の長官を兼ねるようにしたのです。つまり、実際に政治を担う人(国務大臣)によって内閣が構成されるようになったのです。その初代の首相に、長州藩出身の伊藤博文が就任します。
伊藤首相は、君主の権限の強いドイツ・オーストリアの憲法を参考に「大日本帝国憲法」を制定し、これを、天皇から国民に与えるという形で発布します(1889年)。
翌1890年には、衆議院選挙が行われ、帝国議会が開催されます。この年「教育勅語」が下賜されました。

内閣が発足した年(1885年)、現在の特許法の前身である「専売特許条例」が公布されます。
翌1886年、専売特許所が設立され、初代所長に高橋是清が就任します。アメリカの大統領リンカーンは「特許法は、発明者に一定期間、独占権を補償することによって、天才の火に利益という油を注いだ」と述べましたが、日本も特許制度を取り入れることで「天才の火に利益という油を注ぐ」こととしたのです。これによって、日本の産業発展が加速します。
専売特許条例に先立つ1883年、特許に関する基本原則を定める国際条約(工業所有権に関するパリ条約)が締結されました。不平等条約を改正するためには、日本もこの条約に加入しておくことが必要とされます。つまり、近代日本における特許制度の整備は、「パリ条約への加入、ひいては不平等条約の完全撤廃」に向けての第一歩でもあった訳です。

(4)日清戦争の頃

先ずは、当時の中国(清)との関係についてお話します。
1871年、日本は、清との間で対等な条約を結びます(日清修好条規)。その年「台湾に漂着した琉球住民が、台湾住民によって殺害される」という事件が起き、日本はその責任を清に求めたところ、「台湾住民は化外の民であるから関知しない」という清の回答を得ます。「清が台湾に対して責任を負わないのであれば…」ということで、日本は、琉球に代わって台湾を攻めることとしたのです。その後、琉球は日本に組み込まれて沖縄県となり(1879年)、台湾は日清戦争後に日本の領土となりました。

次に、朝鮮半島(韓国)での様子です。
当時、韓国では、開化派と保守派が対立していましたが、1875年の江華島事件をきっかけに、日本は、日本側に有利な条約(日朝修好条規)の締結に成功します。

1894年、韓国南部で発生した反乱(甲午農民戦争)に対し、朝鮮政府の求めに応じて清が出兵すると、日本も、清に対抗して出兵します。これが日清戦争の始まりです。日清戦争に勝利した日本は、1895年の下関条約で「朝鮮の独立」を清に認めさせます。そして、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲と共に、賠償金3億円(当時の政府収入の約3倍)を手にするのです。
その後、日本は、ロシア・ドイツ・フランスから干渉を受けて遼東半島を手放すこととなりますが、この日清戦争の勝利によって、日本は、中国進出を狙う資本主義国の1つとして、列強諸国から注目される存在となるのです。

この1894年は、第二次伊藤博文内閣の外相・陸奥宗光によって日英通商修好条約が締結され、不平等条約(治外法権)が撤廃された年でもあります。日清戦争後の1899年、特許法(明治32年法律第36号「旧特許法」)が制定され、パリ条約への加入を果たします。不平等条約(関税自主権の回復)の完全撤廃にむけて、「もう一頑張り」といったところです。

(5)日露戦争の頃

日清戦争(下関条約)で得た賠償金を元手に、1901年、官営の八幡製鉄所が開設されます。
鉄鋼が国産化されるようになったことから造船業なども発展し、三井・三菱・住友などの財閥化が進みます。

その頃、満州(中国東北部)ではロシア兵が南下を進めていました。
1900年に中国で起こった義和団の乱に介入するために送り込まれた2万のロシア兵が居座り、冬でも凍らない港を求めて、朝鮮へと南下しつつあったのです。
この事態に対応するために、1902年、日本はイギリスとの間で同盟を結びます(日英同盟)。
ロシアが朝鮮北部に軍事基地を建設しようとした1904年、日本はロシアとの開戦を決意します。
1905年、日本陸軍が旅順・奉天を占拠し、日本海軍が日本海でロシアのバルチック艦隊を全滅させます。
アメリカの仲介のもとロシアとの講和に応じた日本は、ポーツマス条約において、日本が朝鮮を支配することをロシアに認めさせます(1910年には、日本の韓国の併合が、欧米列強によって認めらられるようになります)。そして、ポーツマス条約において、中国の遼東半島南部の租借権、南満州にロシアが建設した鉄道の権益、さらには南樺太の領有権をロシアに認めさせたのです。
日本が韓国を併合した翌年(1911年)、日本は、遂に不平等条約(関税自主権の回復)の完全撤廃に成功します。

日露戦争後のポーツマス条約によって日本の領土は拡大しましたが、賠償金を得ることができなかったので、この条約を不満として暴動が起こります(日比谷焼き討ち事件)。治安警察法(1900年制定)によって、この種の暴動は一網打尽にされるのですが、そんな中にあっても、劣悪な環境下で長時間労働を強いられる工場労働者によって労働組合が結成され、幸徳秋水らによって社会民主党が結成されていきます。
政府は、このような社会主義運動を厳しく取り締まる一方で(1910年の大逆事件では、天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水らを逮捕し、死刑としました)、労働環境の改善を図るべく工場法(女子や子供の長時間労働を禁止)を制定する、というように「アメとムチの政策」を採らざるを得なくなります。

成長する財閥と工場労働者の活動の場としての「都市」、疲弊が進む「農村」、という二極化した当時の日本において、全ての国民に対して「教育勅語」に基づく教育が施されていきます。
「大日本帝国の臣民」としての教育を受けた人々によって、その後の時代が作られていくのですが、さて、どのような時代になったのでしょうか? 不平等条約の撤廃を成し遂げた日本が、次なる目標として掲げたものは何であったのでしょうか?
これから先は「自分史作成支援サイト」で学ぶこととしましょう!

「自分史作成支援サイト」の利用のしかた

第1頁目(誕生年の頁)には、誕生年(1年分)の出来事が書かれています。
それ以降の頁には、5年分の出来事がまとめて記述されています。
先ずは、自分史作成支援サイト(TM)のフロントページで、最も古い年を入力し、一気に読み進んで下さい。歴史の流れを感じ取って頂けることと思います。

詳しく学びたい場合は、全ての誕生年の頁(第1頁目)をお読み下さい。
太字で書かれた文字は、「自分史作成ドットコム」で解説しておりますので、併せてご利用下さい。

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